明倫会

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明倫会(めいりんかい)は、1933年5月16日に、将官級の在郷軍人を結集して組織された右翼団体5.15事件神武会大川周明らが逮捕されたことを受けて、神武会の急進主義的な方針と一線を画した団体設立を志向した石原広一郎徳川義親らの支援によって設立された。

事務所

  • 1932年当時の本部は東京市牛込区田町1-4の市ヶ谷ビル内にあった[1][2]。1934-1935年当時の本部所在地は東京市麹町区丸の内1-6の海上ビル(旧館7階)[3][4]
  • 1932年当時、関西総本部は大阪市西区新町通4-5の海軍協会大阪支部主事・西尾信一宅に置かれていた[2]
  • 支部は大阪、京都、名古屋、神戸、横浜、福岡、広島、金沢、仙台、小樽の全国10ヶ所に設置[5]。特に関西方面で勢力を伸張した[6]

会員

  • 会長は予備陸軍大将・田中国重、副会長は在郷軍人の陸軍中将・奥平俊蔵[5][2]
  • 他に、1934年当時の中心人物として、森下正一安芸晋井上勝好、1935年当時の中心人物として、海軍中将・権藤伝次、陸軍中将・山田虎夫、石原広一郎の名が挙げられている[4][3]
  • 幹部は、陸海軍の予備・後備の佐官級軍人数十名で構成[5]。陸海軍の首脳部の中堅将校と、在郷軍人団体の中堅層、石原ほかの実業家の結束をはかった[7]
  • 政党関係者の入会を許さない方針だったが、田中は鹿児島県の出身で、薩派の政治家や軍人に近かった[8]

綱領

沿革

  • 1932年3-4月頃から結成を準備。田中国重を準備委員長として、神武会を脱退した石原広一郎が合流した。[13]
  • 同年10月14日、東京で会員の第1回懇談会を開催した[13]
  • 1933年3月から、それまでの『明倫彙報』に代えて機関紙『明倫』を月次で刊行[13]
  • 同年5月16日に東京会館で結成式を挙行[10][14]

刊行物

  • 明倫会『明倫会会史』明倫会々史編纂所、1942年、NDLJP 1438984
  • 石原広一郎・斉藤瀏(述)『日本の決勝戦此の一年』明倫会京都支部、1941年、NDLJP 1100118 (閉)
  • ローベルト・ルールカン(著)『難攻不落のマジノー・ライン見聞記』明倫会、1938年、NDLJP 1260828 (閉)
  • 渡辺金三『東北満洲及南満洲の湿地踏査の結果と其の開拓に就て』明倫会、1937年、NDLJP 1256610 (閉)
  • 大山卯次郎『米国司法制度改革の意義』明倫会、1937年、NDLJP 1441901
  • 大山卯次郎『米国中立法の意義及其適用に就て』明倫会、1937年、NDLJP 1268400
  • 明倫会本部『国政革新要綱』明倫会本部、1936年、NDLJP 1270675
  • 明倫会本部『国体明徴と明倫会の活動』明倫会本部、1935年、NDLJP 1456093
  • 明倫会本部『軍人の政治関与問題』明倫会本部、1934年、NDLJP 1455724
    • 改定版、明倫会出版部、1937年、NDLJP 1455880
    • 改定第3版、明倫会出版部、1940年、NDLJP 1456058
  • 匝瑳胤次『1935年の軍縮会議と日本』明倫会本部、1934年、NDLJP 1273290
  • 田中国重『満洲警察官の不逞行動を戒む』明倫会本部、1934年、NDLJP 1455099
  • 明倫会本部『明倫会』明倫会本部、1934年、NDLJP 1438766

付録

脚注

参考文献

  • 小田部 (1988) 小田部雄次『徳川義親の十五年戦争』青木書店、1988年、ISBN 4250880192
  • 中野 (1977) 中野雅夫『革命は芸術なり‐徳川義親の生涯』学芸書林、1977年、JPNO 78013751
  • 社会教育協会 (1935) 社会教育協会『我が国に於ける国家主義団体』社会教育協会、1935年、NDLJP 1456117
  • 文部省 (1934) 文部省学生部『日本改造運動 上』文部省学生部、1934年、NDLJP 1445494
  • 大阪時事新報 (1932) 大阪時事新報社『新日本のファッショ運動 - 明倫会の真相』大阪時事新報社、1932年、NDLJP 1098720
  • 国民新聞 (1932) 国民新聞社政治部(編)『非常時日本に躍る人々』日東書院、1932年、NDLJP 1452415